シスターの散歩道

このブログはノートルダム修道女会のシスターが日々の気付きを綴るブログです。
野崎先生
野崎先生
  入院をまじかにひかえて休んでいると、おのずと過ぎ来し方のできごとや出会った人々のことが思われます。その1つは、新卒の中学校教師として過ごした数年の思い出です。教材研究に苦しみながらも、同じく新入りの数人の仲間たちと若さを満喫した日々でした。
  責任者の野崎先生や他の先生方の目にあまることも多かったにちがいありません。ある修学旅行で山口市内を見学していたとき、1人の生徒が急性盲腸炎をおこし、緊急に手術が必要になりました。私たち2人の若い女性教師が、手術に立ち会い、その生徒の父兄の到着をまって、後から一行を追いかけることになりました。手術も無事に終わり、生徒を父兄の手にゆだねた私たちは、重い責任から解放され、思いがけない自由な夜を語りあかし、翌日、熊本の水前寺公園で一行に追いつきました。そこで、はじめて重大なミスに気づきました。旅館の支払いを忘れたのです。責任者の野崎先生はただ笑って、必要な手配をして下さったのです。
  半世紀もたった今も、先生の笑顔があたたかく私をつつんで力づけてくれるように感じます。思えば人は、気づくことなく、多くの人々の愛と赦しに包まれているので、生きることができているのでしょう。エーリッヒ・フロム(1900-1980)は「愛とは、もう一人の愛する人を作ることだ」といいました。「父よ、全ての人を1つにして下さい。」と、キリストは父なる神に祈りました。「愛する者になること」が、それを実現するのでしょう。私たちはそれを学びながら生きているのでしょう。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
「言葉その1」
彼女はある時、
二つの容器に水を入れ、その一方には「ばか」とか侮蔑の言葉、もう一方には「ありがとう」と感謝の言葉を書いた紙を貼るか、入れるかし、後で、両方の水紋を写真で撮ったところ、侮蔑の言葉を貼った容器の水紋は荒々しく乱れてい、感謝の言葉の方は美しい模様になっていたという数枚の写真が載っている本を見たそうです。

人間の体の80パーセント程は水分だから良い言葉、優しい言葉を聞いていると、きっと良いに違いないと思って、それからは歩く時も、キュウリを切る時も、バスに乗り遅れても「ありがとうございます。ありがとうございます。」というようにしたそうです。すると色々な事が好転していくように感じると言っていました。どの様な言葉も最初にその言葉の影響を受けるのはその言葉を口にした当人ですよね。
怒りの言葉を口にすると,さほどでもなかったのに怒りが込み上げて来る。
無理にでも、優しい感謝の言葉を口にすると気持ちが穏やかになってくるのは多くの人が持つ経験です。
ままならぬことも多い中で生活する時の知恵を頂いたように感じました。
旧約聖書の中にはつぎのようなことばがあります。「自分の口と舌を守る人は苦難から自分の魂を守る」(箴言21章の23)
心したいものです。
シスターメリー・パトリシア久野 : comments (x) : trackback (x)
年の初めに  Part 1 いのち
 全州市は李氏朝鮮(1392―1910)の発祥地であり、ビビンバでも有名なところです。この全州市はかつて私どもの韓国ミッションの地でした。今から20数年前になりますが、私たちはまだ修道院がなくアパートの一角に新修道院を開設しました。

 日当たりがよく風光明媚なこの地に次から次へと巨大なアパート群が林立しました。すぐに教会・学校・役所そして種々の店舗が立ち並び、湖城洞(ホソンドン)と呼ぶこの町は急速に発展してゆきました。私たちはこのような環境の中で民間レベルでの日韓両国の懸け橋としての役割を楽しんでおりました。

修道院は20階建ての18階に位置しており、春夏秋冬を問わず心地よい環境に恵まれていました。南側に面したベランダには蘭の鉢植えを幾つかおいてその蘭の世話を楽しんだものです。毎日せっせと水をやりました。2年近く経っても、いっこうに開花の気配が感じられないこの蘭をあきらめかけていました。「もうこの蘭は咲かない」と勝手に判断し、それを捨てようとしていた矢先のことです。


 幾つかの枝の間から可愛らしい蕾(つぼみ)が私の目に留まりました。この蘭を見限っていた自分の心の姿勢に恥ずかしさを憶えました。「誰も勝手に命を奪う権利は無い!」とのささやきを感じたのです。神にそして「自分の時」がようやく来て健気に咲こうとしている蘭に素直に謝りました。それ以後、私はどの命に対しても敏感になり、尊敬をもって接するよう心掛けています。この蘭(シンビジューム)は見事な開花を遂げました。日本に戻った今もその蘭は私の心に生きています。そして命の尊さを教えてくれたシンビジュームに感謝しています。

           ごらんよ、空の鳥、野の白百合よ、
         まきもせずつむぎもせずに安らかに生きる
             こんなに小さな命にでさえ
               心をかける父がいる
             カトリック典礼聖歌集 #391
シスタージョアンナ徐 : comments (x) : trackback (x)
「待つ〕と言うこと
現代人は待つことが苦手だと言われて久しいです。

11月下旬、私はもみじの名所、永観堂を訪ねました。秋晴れの穏やかな朝、永観堂はすでに観光客で賑わっています。かつてノートルダム女学院中学高等学校に奉職中の頃は、私が住んでいたノートルダム修道院がごく近いこともあり、幾度となくその周辺を散策したものです。あれから20余年が過ぎ去りました。これまでずっと永観堂禅林寺で一人静かに「みかえり阿弥陀様」と対面する機会を待っていました。

私たちはいつしか時間に追われスピードと効率を優先させる環境に慣れ親しみ、待つことは苦手のようです。世が世だけにこのような環境から少しばかり身を引き、自分のあり方を見つめる機会を作らなければと常日頃感じていました。

ようやくその願いが叶えられようとしています。みかえり阿弥陀さまの前に立ちました。 立ったと言うよりは静かにそこに正座し、阿弥陀様と対面しました。77センチの本尊像が私を穏やかに迎えてくださったように思われました。右手を胸のあたりに、左手の掌を下方に向け全体的に全てを受け入れる姿勢をしておられます。左後方を振り返りながら暖かい眼差しと仕草で待ってくださっているように感じられました。遅れる人々を待ち、迎え入れようとする姿勢に母親のぬくもりを感じさせてくれます。この暖かさの前で人は、理屈抜きに素直になれます。平素することが山積みにされ、心の平静さを失いがちな私に向けられた温和なまなざしが私を安堵させ、来て本当に良かったと素直な心になりました。

まもなく迎えるアドヴェント(待降節)はイエスの誕生を待つ大切な、しかも浄化の「時」です。人々は無防備な幼子の中に慈悲と憐れみを感じようとし、幼子を迎え入れようと心を整えます。
 
シスタージョアンナ徐 : comments (x) : trackback (x)
「堂々と負ける」
「堂々と負ける」
  九州場所も2、3日後に千秋楽をむかえますが、この場所中に、モンゴルの力士たちの間にいさかいがあったと聞いて、残念におもいました。相撲というと私は、いつだったか、ある力士から聞いた1つの言葉をおもいだします。「『負けた時は堂々と負けなさい。』と、自分の師匠がおしえてくれた。」という言葉です。
  日常の生活のなかでも、自分の負けや弱さをすなおに認めることはむつかしく、つい弁解をしたり、責任を他人に転嫁したり、はては落ちこみ、投げやりな気持ちになったりします。この師匠は、「堂々と負ける」という言葉でこの弟子に、自分の現在の力を正直にみとめ、自分を信じて、方策を立て、向上をめざしていく真摯な姿勢をおしえたのでしょう。
  思えば、私たちは、成功からよりも失敗から、おおくを学んでいるのではないでしょうか。まず自分の弱さや失敗を正直にみとめなければ、堂々と前に進むことはできません。そして、弱さや限界のために、失敗もさけることができない人間として、今、この場を真摯に生きるほかありません。
  つい最近、ある親方がラジオの対談で、「勝った力士は謙虚に、負けた力士は潔く、礼をして感謝し、静かに去っていくのが、日本の相撲の精神だ」と話すのをききました。はじめて知ったこの相撲の精神を、私は人生にも通じるほんとうにすばらしい精神だと思ったのです。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)