シスターの散歩道

このブログはノートルダム修道女会のシスターが日々の気付きを綴るブログです。
「えい!」
「えい!」
  ママといっしょに私のすむ修道院へ遊びにきてくれる4歳の男の子のお気に入りの場所は、窓辺のほそい棚の上です。彼は小さいときから、この高さ80センチ、巾40センチの棚のうえに、腰かけ、立ち、寝そべり、あらゆる遊びを考えだしました。カーテンでかくれんぼ、電話遊び、おやつをたべ、紙マイクで歌い、本を読み、絵をかき、お勉強をし、飛行機を飛ばし、自分も床へ飛びおりること。
  そして最近は、棚からすこし離れたところにママを立たせて、ママの胸にとびこむこと。始めは、慎重に身をためて、思いきって空間をとんで、しっかりとママに受け止めてもらいました。何度もママに向かってとんだあと、「今度はシスター」というので、私はおそるおそるママと同じところに立ちました。4歳の男の子が私の胸に飛び込んできた衝撃はそうとうなもので、私はどうにか彼を受けとめられて、ほっとしたのでした。
  空間をとぶという初めての試みには、そうとうな決意と信頼と勇気がいったことでしょう。小さな男の子の信頼と彼の体の衝撃が、私の心に深くのこり、私自身が修道生活への招きに応えたときのこと、そして、日々の生活のなかでの神へのゆだねと重なりました。それにしても、私が神にあたえる衝撃の重さはそうとうなものに違いないと思うのです。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
五色八重散り椿
五色八重散り椿
  日曜日の朝になると、私は住んでいる修道院から松ヶ崎通りをあるいて、家々の庭木や季節の花々を楽しみながら、北大路にある高野教会のミサにいきます。香りのよいソシンロウバイ、四季咲きの桜、ナンバンギセルもよいですが、特に、心がおどり、立ちどまって眺めずにいられないのは、あるお宅の生垣をこえる木に咲く椿の花です。1本の木に、まっ白な花、濃いピンク、さまざまなピンクの模様がはいる美しい八重の花々が、長いあいだ咲きつぐのです。
  ある朝、道に散った花びらを掃いている住人らしいおばあさんに会いました。「きれいな花ですね。」という私に、おばあさんは微笑みながら、「私がお嫁にきたときから、あったんですよ。でも、他の椿とちがって、花びらがばらばらに散るので、お掃除がたいへんで…」と言います。名前をきくと、ちょっと困った顔になって、「ふだんはすらすらと言えるのだけれど…確か、『五色散り椿』だったと思うけれど…珍しい椿だそうですよ。」と言いました。
  そして、ぐうぜん今日、友人から、白梅町一条通りの地蔵院に「五色散り椿」があって、蕾をたくさんつけていると聞いたので、松ヶ崎通りのおばあさんの「五色散り椿」を見に行きました。まだ固いたくさんの蕾のなかで、1つ、2つが、心なしかふくらんで、白い花びらの先を見せていました。帰る道すがら、その友人の詠んだ「『散椿』散る日のための蕾かな」と云う俳句を思い巡らしていました。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
柚子(ユズ) 茶
柚子 (ユズ) 茶
  冬というと、ほのかな柚子の香りをなつかしく思い出します。柚子の香りの酢の物、お吸い物、鍋物のタレ、香の物…。そして、いつも使い残った柚子の実が、冷蔵庫の片隅でしぼんでいくのをもったいなく思ったものでした。
  何年か前に、柚子農家では柚子の身も皮もぜんぶ食べると聞きました。私もいろいろやってみて、私の柚子茶ができました。ジャムの入っていたガラスのビンを熱湯にくぐらせて消毒し、まず、底に氷砂糖を敷きつめます。その氷砂糖の上に、消毒したハサミで、柚子の皮と身を細くきりながら直接ビンにいれ、また、氷砂糖を敷きつめます。また、皮と身。そして、最後にまた、氷砂糖を敷きつめます。翌日には、ジュースが上まであがり、1週間もすると氷砂糖もあらかた溶けて、小さなスプーン1、2杯に熱いお湯をそそぐと、香りたかい柚子茶になります。また、紅茶にいれると最高においしい紅茶になります。何よりも自然の恵みをむだにしないで、最後までいただけることを嬉しく思うのです。
  この冬は、4年前に買って、去年の春に庭に移しうえた鉢植えだった柚子の木に、小さな実がついて、そのいくつかも柚子茶にできたことは、また格別の喜びです。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
呼び出されて
呼び出されて
  元旦のミサで、ご聖体を受けるために祭壇に近づいていた時でした。後ろから大きな声が「シスター!」と私を呼びました。私が親しくしている4歳の男の子です。ご聖体をいただいて席にもどった私はとてもさわやかに感じていました。幼子の大きい声はミサに与かっていた多くの人々にも聞こえたでしょう。その幼子の声で、私をおおっていた雲がすっかり払いのけられて、私はあるがままで祝福され、人々の間に呼び出されているように感じていました。
  最近のテレビで、地球の歴史が46億年であり、私たちがその美しさに誇りを感じている嵐山の、ある地層が26億年の歴史をもつと最近知った、悠久の母なる大地に、一瞬の命のめぐみをいただいて、今、ここに、生きていることが思われました。
  また、最近、読む機会をいただいた「5つのパンと2匹の魚」の著者、枢機卿フランシスコ・グエン・ヴァン・トアン(1928-2002)が、司教のとき、理由もなく逮捕されて、13年ものあいだ、劣悪な独房に捨ておかれながら、積極的に「生きぬいた」ことが思い起こされました。
  人として、修道女として、今、ここで、よく「生きる」ために、私は新たに呼び出されたのだと悟ったのです。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
チーズ
その神父様は修道院で生活なさっていました。
その修道院では食事のときチーズが大きな塊のまま出て、各自が自分に必要なだけ切り取って次の人に回すそうです。
ある時、隣の人が、チーズを、4分の1のところで切り分け、そのおおきいほう、つまり4分の3を自分の皿に取り、残りの4分の1を次の人に渡されたそうです。

そしてその神父様は澄ました顔でおっしゃいました。「そういう時、あと何人いるのにとか、人のことを考えない人だと思わず、その人がお腹を壊しませんようにと、心の中で、祈るのですよ」と。人を裁かないとはそういうことかと妙に納得して聞いていました。実生活の中で、このように祈るのは難しいことですので心に残っています。

朝食に、チーズがでるたびに思い出します。
シスターメリー・パトリシア久野 : comments (x) : trackback (x)