シスターの散歩道

このブログはノートルダム修道女会のシスターが日々の気付きを綴るブログです。
記録と記憶
記録と記憶
  今朝、病院でのリハビリの帰りに、町の時計店によって電池をかえてもらいました。最初の携帯をかたどった親指ぐらいの小さな私の時計のフタをあけて、「2年まえに電池をかえたのですね。フタの裏に記録があります。」と、女主人が言いました。
  その日、病院から持ちかえった「Sohma News」秋号に、私の主治医の先生が、「今年の夏の暑さは異常だったが、去年の暑さはどうだったかというと、記憶はもう曖昧になる。気象庁の記録をしらべたところ、日中最高気温が39度以上の地点が今年は38か所、去年は2か所だけだった。2年前の夏のこととなると、まったく記憶にない。….最近、自分の車に、ドライブレコーダーをつけたところ、記録されているとおもうと、運転もすこし慎重になる。診療の場でも記録の助けを借りて、安全運転に努めたい。」と書いておられました。
  去年の夏、たずねたアメリカの老人ホームにすむ友人は、うつくしいペンマンシップで、綿密につけた日記帳から、私たちが共に過ごした記録をさがしたのですが、見つかりませんでした。アフリカンバイオレットの愛好家だったこの友人は、セントルイスの植物園、ショーズ・ガーデンでの例会のために、2年つづけて私に、日本の生け花をいけてくれるように頼んだのです。訪問のとき、私たちがこのささやかな生け花展のことを記憶にのぼらせることができていたら、日記帳の中に生け花展の記録も見つかり、会話がもっとはずんだだろうと今にして思うのです。
  時計店の女主人のことばが、記録と記憶の関わりを思いめぐらすきっかけとなりました。
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「心の中の天使」
「心の中の天使」
  大型の21号台風がきた朝、私は通っている病院でのリハビリの予約がありました。京都市内のすべての学校もお休みになり、デパートさえも閉まり、ラジオもテレビも、早くから外出をひかえるようにと告げています。朝、まだ雨も風もなく、地下鉄もいつも通りに動いているとのこと。私は迷ったすえ、リハビリに行くことにしました。地下鉄もエレベーターもバスもリハビリも、順調で、いつもより早く終わったのです。
  烏丸今出川から、ほとんど乗客のいない帰りの地下鉄に乗ってほっとした私の目に、車の中ほどの天井から下げられている広告に目がとまりました。中学生らしい男の子が席の必要な女性に、「私の心の中の天使が席を譲ってあげなさいとささやいたから」と、席をゆずっている様子が描かれています。私は心がなごんで、思わず微笑んでいました。
  広告の下側には、「あなたの心の中に天使はいますか。」と、書かれています。私の心の中の天使は、私にとって、すべてが順調にはこんだこと、危険な台風が近づいている今、地下鉄やバスを動かし、病院を開くために働いて下さる全ての人々、そして、私が気づいていないけれどもお世話になっている多くの人々に感謝の心を持つようにと、ささやいてくれました。
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「愛をこめたから」
「愛をこめたから」
  時おり、修道院にママといっしょに遊びにきてくれる5歳の男の子の幼稚園でも、「夕涼み会」がありました。年長さんたちの夏の年中行事とのこと。
  その日の午前中、年長さんたちは、ニンジンやジャガイモを切って、先生方といっしょに夜のごちそうのカレーライスを作りました。いよいよ夜になって、女の子たちは浴衣、男の子たちは甚平すがたで幼稚園にあつまって、皆でいっしょにカレーライスをたべ、宝さがしをし、花火をたのしみ、最後に、花かざりやレイをつけて、フラダンスをおどりました。先生たちも、パパやママたちも、おどりにくわわりました。子供たちのお気にいりは、声をあげて縄をなげるカウボーイになるところ。最後は子供たちの元気な投げキスで、広間はたのしい笑い声につつまれました。帰りの車のなかで男の子はママに「今までに食べたカレーライスのなかで、今日のが一番おいしかった。ニンジンやジャガイモを切るとき愛をこめたから」と、うちあけました。
  この世界に生まれでる全ての子供たちが、仲間たちや多くの大人たちと心の底から楽しんだ思い出を持つことができるようにと、心から祈ります。
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「私は誰か」
「私は誰か」
  ずっと以前、京都駅ちかくのホールであった、石井完一郎先生 主催の、「私は誰か」という講座に出たことがあります。単位をとる学生もまじる大人数の階段教室でした。
  私たちは、まず、会場を歩いて、できるだけたくさんの人と握手をして挨拶するように言われ、最後の人と組になってすわりました。次に、相手について「あなたは○○のように見えます。」と、10のことを伝え、次に「あなたは○○の方だとおもいます。」と判断したことを10、話すようにと言われました。私が相手に伝えたことは、彼の年齢のこと以外は合っていました。彼が私について言ったことは、20とも、すべて合っていたのですが、彼は最後に「でも、あなたはどういう方なのですか」と私に尋ねます。とまどいながら「私は修道女です。」と、言うと、「ああ、それで分かりました。」と彼は言ったのです。
  思えば、それからも私は、「私は誰か」を問いつづけてきたと思います。ナチスの強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルはその著書に、「人は一人ひとり彼自身しか達成することかできない使命を神から与えられており、常にどう生きるかを問われている存在である。そして、どのような状況にあっても、彼自身にとって意味ある生き方を選ぶことができるのだ」と、自分の体験から書いています。キリストに倣って生きようとする修道女の私も、日々の生活の場で求められる1つひとつの事がらに、私の心の深みから真摯に応えようとするときに、私の「私は誰か」が実現していくのでしょう。
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  ご近所からいただいて、粉のようだと思いながら蒔いたペチュニアの種が、芽生え、6月はじめに真っ白な初花を咲かせてから、7月下旬の今にいたるまで、薄いピンクの花から濃い紫までの色や形や模様のちがう花々を、手品のように繰りだして、私を驚かせてくれています。そして、最近、枯れた茎についている乾いた苞が1つ、割れて、見覚えのある小さな種がつまっているのを見つけました。
  小さなペチュニアの種を知ってから、いつも気になっていたことがあったのです。それはカラシダネについて、「…地上のどんな種よりも小さいが…」(マルコ4:31、他)という、聖書の中のイエスさまの言葉です。私の机の引き出しの種の箱のなかを探して、ずっと以前にもらった小さなビニール袋に入っているカラシダネの種を見つけだしました。その種はペチュニアの種よりずっとずっと小さい、あるかなしの小ささです。
  「神の国を何にたとえようか。それはカラシダネのようなものである。土に蒔くときは、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」と、神の国は神の恵みと愛の連帯によって実現するのだと、イエスさまは説いておられるのだと思います。
  私の書の先生が、聖書を全部読み、カラシダネという言葉を選び、漢字で彫って、私のお祝いに下さった書におす印をもっているのですが、改めて先生に感謝しながら、私の修道生活を深めていく励ましとしたいと思います。
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