シスターの散歩道

このブログはノートルダム修道女会のシスターが日々の気付きを綴るブログです。
名前
名 前
 私は毎土曜日に、高野教会でキリスト教入門講座をしています。ひとりの小学1年生の男の子もお母さんといっしょに来て、クラスはいつも楽しい笑いにつつまれ、男の子の、むじゃきで素直な一言が、私たちを感動させ、より深い気づきへと導いてくれたりするのです。
  先日、彼はマイクのついたマクドナルドの赤帽をかぶってやってきたので、私はもってきた短い棒状のお菓子と、参加者の一人がもってきた小さな六角形のビスケットを配ってもらうことにしましました。自分の前におかれた懐紙にようじんぶかくお菓子をくばりながら、彼は「ハンバーガーとフライドポテトだよ」と言いました。彼は私たちにじゃんけんをさせて、勝った順から、お菓子の山を1つずつ取らせ、また、私たちの胸にティシュペーパーのナプキンまでつけてくれたので、私たちはすっかりマクドナルドのお店にいる気分になりました。そして、「店長さん、上手に配れたね。」「店長さん、すごいね。」と、ほめていました。すると、彼はふと、「その名前で呼ばないで。いつもの名前で呼んで。」と、いったのです。
  パパとママが、心をこめて名づけ、いつも呼んでくれる名前が、自分自身だと彼は直感しているのでしょう。イエスの復活の朝はやく、お墓についたマリア・マグダレナは、イエスから自分の名前で呼ばれて初めて、復活なさったイエスに気づくことができました。思えば、私たちは一人ひとりを慈しんでくださる神から自分の名前で呼ばれながら、自分自身へと変えられていっているのではないでしょうか。
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希望
希 望
  昨日、歯医者さんに行くと、乳母車の赤ちゃんが待合室にいて、じっと私をみつめました。「10か月なんです」と、若いお母さんがやさしく微笑みながら言いました。
  診察台によこになって治療をうけながら、歯科医院には不似合いな赤ちゃんの存在が私を微笑ませていました。そして、赤ちゃんのうつくしく澄んだ目が、3月にロサンジェルスから大阪までの飛行機で隣りあわせた一人の女子高校生を思いださせたのでした。
  彼女はアメリカでの高校生ダンス・コンクールで、6年連続の優勝をとげて帰る大阪の商業高校、約30名のグループのメンバーでした。私のかたいペットボトルの栓をあけてくれるなど、心遣いをしてくれながら、とぎれとぎれに自分のことを話してくれました。外国の高校生はプロポーションがきれいだと思ったこと、構成も振り付けも音楽も自分たちでやったこと、オーディオ担当の仲間のすばらしい技術、高3になるのでクラブのメンバーを辞める寂しさ、将来の夢。私は彼女の話を聞きながら、協力して全力をつくす人たちの美しさ、全ての体験は無駄にはならないこと、「他の人への最善の贈り物はよい思い出だ」というフランスの哲学者マルセルの言葉、心に抱いている望みはやがてよい形で実現してゆくこと、などを話したのでした。
  車いすの私がこの高校生たちのそばを通るとき、彼女は明るくかがやく目で私に挨拶を送ってくれました。私は彼女といっしょに将来への希望を共有しているように感じたのでした。
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愛は一つ
愛は一つ
  3月20日、乗りつぎの飛行機をのがしてしまった私は、東海岸の州にあるシャーロット空港まわりでセントルイスへ行くことになり、別のゲートにうつり、搭乗までさらに5時間まつことになりました。人のまばらな新しいゲートの私のまえの椅子に、中国人らしい中年の女性がいて、私の国籍をききたそうです。「Japanese」というと、すこし残念そうでしたが、人差し指と親指のあいだをせまくして「English, little」といいながらも、自分のとなりの椅子の方が座りやすいから移るほうがよいとわからせてくれました。
  親せきや友人との会話をスマートホーンでたのしんでいた彼女が私に、「夕食をたべたか」とたずねます。まだだというと、「どこでたべるか」とたずねます。私は「ここで」といいました。「チキンをたべますか」「ヌードゥルはどうですか」というので、私は「いいですね」答えました。どこかへ行った彼女は、帰ってきて、自分のスーツケースを私の隣の空いた椅子にねかせ、紙ナプキンをしき、チキンとヌードゥルにナイフとフォークをそえ、飲みものもおきました。自分は満腹だからと、またスマートホーンでの会話にもどった彼女のそばで、私は彼女の心づくしの夕食をおいしくいただき、車いすへのチップのための両替までしてもらったのです。
  「あなたは私のお母さんのようです」と私がいうと、「あなたが私のお母さんです」と彼女は答えました。愛には仕切りはない。愛は一つなのだと私は悟らせていただいたのです。
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「何を読んでいるのですか」
「何を読んでいるのですか」
  今年、3月20日、私はロサンジェルス空港にいました。ミーテイングのあるセントルイスへの乗りつぎ便への搭乗までには、5時間の待ち時間がありました。少しでも英語に慣れておこうと、私が英文の会憲を読んでいたときに、「何を読んでいるのですか」と声をかけられたのです。それは控えめで美しい日本語でした。驚いたことに声の主は外国の方で、お父さまが日本の大学で教えておられたので、5歳から13歳まで日本で過ごされたとのことでした。
  「最近、瞑想を実践しようとしている」と打ち明けられる、はじめて会ったこの男性の方と、どのぐらいの時間、どのような話をしたのか、はっきりとは覚えてはいないのですが、互いに心をこめて聴き、語りあった、ふしぎな、心にのこる尊い時間でした。講演や著作をとおして、活動しておられるFr. Richard Rohr を最後に紹介できたのはうれしいことでした。
  「世の終わりまでいつも共にいる」と言われた主キリストに信頼して、私は車いすでの一人旅をしていたのですが、彼の問いは私に、使徒言行録(8:26-39)の聖フィリッポとエチオピアの高官との対話を思いおこさせました。日本を大切に思って下さっている彼の幸せを祈っています。
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責任
責 任
  3月下旬に、セントルイスでの会議に出席するため、関空を発って、ロサンジェルスの空港にきていました。ゲートで5時間待ち、セントルイス行きの飛行機に乗り継ぐことになっていたのです。体調の関係から車いすをお願いして、ゲートまで案内していただき、搭乗の時に、また来てくださることになっていました。
  本を読んだり、思いがけない出会いをよろこんだりしながら、大勢のひとびとがゲートにあふれ、やがて搭乗口から去ってゆくさまを、まるで潮の満ち引きのようだと感じているうちに、どうもあたりの様子がおかしいと気づきました。だれもいなくなったゲートに私一人が取り残されていたのです。近くの小さなオフィスに行って、私が乗り継ぐはずの飛行機は、ゲートを変えて、すでに飛び立った後だとわかりました。私はゲート変更も知らず、約束の車いすも迎えに来なかったのです。それからさらに5時間待って、東海岸ちかくの州にあるというシャーロット空港を迂回して、翌朝セントルイスに着くことになりました。
  広大な夜の空に、アメリカ大陸を横断する飛行機の中で、絶え間なく変化してゆく、計り知れない大きな枠組みのなかに、自分はいるのだと感じました。今回、放送がなくても、車いすが来なくても、私はもっと注意深くあることができたでしょう。うまく表現できませんが、神に信頼しながら、もっと前向きであることが、この大きな枠組みの中で生きている自分自身にたいする自分の誠実さ、責任なのだと学んだのでした。
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