シスターの散歩道

このブログはノートルダム修道女会のシスターが日々の気付きを綴るブログです。
「堂々と負ける」
「堂々と負ける」
  九州場所も2、3日後に千秋楽をむかえますが、この場所中に、モンゴルの力士たちの間にいさかいがあったと聞いて、残念におもいました。相撲というと私は、いつだったか、ある力士から聞いた1つの言葉をおもいだします。「『負けた時は堂々と負けなさい。』と、自分の師匠がおしえてくれた。」という言葉です。
  日常の生活のなかでも、自分の負けや弱さをすなおに認めることはむつかしく、つい弁解をしたり、責任を他人に転嫁したり、はては落ちこみ、投げやりな気持ちになったりします。この師匠は、「堂々と負ける」という言葉でこの弟子に、自分の現在の力を正直にみとめ、自分を信じて、方策を立て、向上をめざしていく真摯な姿勢をおしえたのでしょう。
  思えば、私たちは、成功からよりも失敗から、おおくを学んでいるのではないでしょうか。まず自分の弱さや失敗を正直にみとめなければ、堂々と前に進むことはできません。そして、弱さや限界のために、失敗もさけることができない人間として、今、この場を真摯に生きるほかありません。
  つい最近、ある親方がラジオの対談で、「勝った力士は謙虚に、負けた力士は潔く、礼をして感謝し、静かに去っていくのが、日本の相撲の精神だ」と話すのをききました。はじめて知ったこの相撲の精神を、私は人生にも通じるほんとうにすばらしい精神だと思ったのです。
シスタールース森 : comments (x) : trackback (x)
錦秋に想う
私が住んでいる松ヶ崎界隈の錦秋は本当にゴージャーズで銀杏並木路を歩くのがいつしか秋を楽しむ私自身の風物詩となりました。今年は例年より早い紅葉を目にしながらこの秋をもう一度意識して迎えたいと目を凝らし、自然の移ろいを肌で感じています。

2011年、韓国・ローマから15年ぶりに戻って味わった京都の秋の美しさは格別で、一瞬息を飲むほどでした。銀杏の木々の微妙な色合いの変化を観るのが好きです。朝の光の中で黄金にあけ染めるさまはあたかも「色と光のシンフォニー」と勝手に命名するほど素敵でした。あと何回この美しさを味わえるのかと、この錦秋に浮かぶ自然の移ろいを感慨深く思ったものです。そのような年齢に達している自分を、もう一人の自分が眺めていることに驚きました。それは一瞬のことでしたが、私に与えられた尊い時間を大切に過ごしたいと強く思う今日この頃です。

このような思いに耽っている間に、一年もあと1か月余を残すのみとなりました。自分史を振りかえって見ますと、生後2日しかもたないと告げられた両親が、風前のともしびとも言えるこの命を慈しみ、「今」を迎えるほどに愛を注ぎこんでくれたのでした。そして、私が過ごしているこの修道家族の中でこの命を、いろいろな形でつなげ見守られているのを感じます。この命の悲喜こもごものすべてを両手で押し頂き、どのような小さなことでも私の一部と思い受け取りたいと思います。これは生きている証し、命の営みをさせていただいていること自体が私にとっては一種の奇跡です。その奇跡は神様がお許しになるその日まで続けられるのです。

11月は特に命の尊さを意識する季節で、一年を振り返り、自分自身の命と他者の命を思いめぐらします。また、命の源である神を思い、やがて訪れる幼子イエスの誕生を心待ちにしながらイエスの命へとこの命が繋がっていけますように。
シスタージョアンナ徐 : comments (x) : trackback (x)
夕映え
夕映え

秋の夕焼けが 目に沁みるようになりました。
こういう季節になると思い出すことがあります。

ある時、職場で非常に屈辱的な体験をしたことがあります。

それを口にする事も出来ないほど傷つき、硬く凍ったような心のまま一週間ほど過ごしていたある日、一人の同僚に散歩に誘われました。

私達は小高い丘に登り、石に座って、ただ、黙って夕日を眺めていました。

そのうち、同僚は何も聞かず、ただ自分の事をポツポツと話し始めました。

静かに沈みゆく夕日を眺めながらそれを聞いているうちに、ゆっくりと心が温まっていき、凍ったようになっていた心と体が、徐々に蘇生していくのを感じました。

「わたし(主)は 乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える」
 「 彼(主の僕イエス)は傷ついた葦を折らず、消えかかっている灯心を消すことがない」
旧約聖書 イザヤ書42章より
 

 
 あの、夕映えの中での同僚の優しさのおかげで、現在があるように感じています。

唯そばにいてくれるだけで癒され、力を得ることがあるようです。

「見よおとめが身ごもって男の子を生む。」その名はインマヌエルと呼ばれる。『インマヌエルつまり『神は我々と共におられると言う意味である。』とイエスさまの誕生に際して言われています、イエス様はわたしと共におられる神ということです。ありがたいことです。
シスターメリー・パトリシア久野 : comments (x) : trackback (x)
夕映え

秋の夕焼けが 目に沁みるようになりました。
こういう季節になると思い出すことがあります。

ある時、職場で非常に屈辱的な体験をしたことがあります。

それを口にする事も出来ないほど傷つき、硬く凍ったような心のまま一週間ほど過ごしていたある日、一人の同僚に散歩に誘われました。

私達は小高い丘に登り、石に座って、ただ、黙って夕日を眺めていました。

そのうち、同僚は何も聞かず、ただ自分の事をポツポツと話し始めました。

静かに沈みゆく夕日を眺めながらそれを聞いているうちに、ゆっくりと心が温まっていき、凍ったようになっていた心と体が、徐々に蘇生していくのを感じました。

「わたし(主)は 乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える」
 「 彼(主の僕イエス)は傷ついた葦を折らず、消えかかっている灯心を消すことがない」
旧約聖書 イザヤ書42章より
 

 
 あの、夕映えの中での同僚の優しさのおかげで、現在があるように感じています。

唯そばにいてくれるだけで癒され、力を得ることがあるようです。

「見よおとめが身ごもって男の子を生む。」その名はインマヌエルと呼ばれる。『インマヌエルつまり『神は我々と共におられると言う意味である。』とイエスさまの誕生に際して言われています、イエス様はわたしと共におられる神ということです。ありがたいことです。
誕生日 Part 3
11月をカトリック教会では「死者の月」と定めています。

11月1日、この日は諸聖人の祝祭日と称し、全世界の教会は、全ての聖人と殉教者を称え感謝を捧げます。そして11月2日、亡くなった人々のため全世界の津々浦々(つつうらうら)にある教会は、すでに天に召された人々を偲び永遠の安息を祈ります。この日にとどまらず聖なるミサの中や食後にも、私たちに先立って逝かれた人々を記憶するのです。

ちょうどローマにおりました頃(2011−2016)のことですが、11月1日は諸聖人祭で公休日です。この日、私どものシスター方とバチカンのカンポ・サント(聖なる地=墓地)を訪れました。このカンポ・サントには数名のノートルダム会員が眠っています。前日、ローソクとお花とマッチを準備しました。死者のために祈るのは何処も同じで、厳粛な気持ちになります。カンポ・サントで祈った後、それぞれの墓石を見て回りました。それを見ていますと、彼らの生活や人間関係が感じられ微笑ましくなります。祖国を離れ異国の地に眠る人々のことが身近に感じられ、時空を超えていっそう深く彼らのために祈りたくなります。ずいぶん昔からこの地は墓地として利用され、貧しい人々の永眠の地でした。

ローマ在住のあいだ、11月1日にかかわらず 私は、しばしばこのカンポ・サントを訪問し祈りました。カンポ・サントとバチカンは目と鼻の先にあります。教皇との祈りの時間に遅刻しないようバチカン広場に向かいました。まもなく教皇の二階の自室が開かれます。全世界からの旅人も含め、人々の視線が二階に集中します。「ヴィヴァーバーパ!」と連呼し、愛を表現します。広場の人々の表情はとても穏やかで平和そのものです。祈りと慈父の心をもって教皇は私たちに祝福を送られました。

生と死は背中合わせと申しますが、私は11月1日の諸聖人祭と11月2日の死者の記念日を特に感謝と尊敬をもって迎えています。この世の生を終え、新しい命へと旅立つ第二の誕生日とこの2日間を思い、いつか迎えるこの日を、愛をこめて受け入れることができますよう願っています。
シスタージョアンナ徐 : comments (x) : trackback (x)